名門ヴィニュロンの誕生
1687年、戸籍によると先祖ピエール・タルラン(1648-1709)がエーヌ県のグランでブドウ栽培を始める。これがタルラン家の長い葡萄栽培の歴史の起源となる。
その後ミッシェル・タルラン(1687-1744)とその息子ミッシェル(1716-1773)が畑を引き継ぎ子孫へと伝えていく。
1780年 ルイ・タルラン(1750-1806)とその妻マリー-マドレーヌがマルヌ県のウイィに移り、代々受け継がれていくことになるブドウ畑を植え始める。
1814年、敗走中のナポレオンとロシアの軍隊が訪れる。従ってタルラン家が侵略者から闘争中にルイ‐オノレ-ロック・タルラン(1814-1872)=ルイ-ニコラ・タルラン(1779-1825)とマリ-カトリーヌの息子である 6世代目、がフェスティニー村の森の岩裏で生まれることとなるのはコサック騎兵の侵略の元となる。もしかすると森を散策すればその岩を目にしているかもしれません。
当時、タルランのブドウ畑はすべての家族によって手入れされていたが、中でも民宿やパリのキャバレーに売っていた白ワインと赤ワインを造っていたアレクシス-テオドール・タルランとその妻ジュリーがメインであった。
1911年、ルイ-アドリアン・タルラン(1878-1960)、ウイィ村の村長でもある彼とその仲間達と共に1927年にシャンパーニュ呼称を得ることとなる。
第一次世界大戦はブドウ畑を壊滅状態に追いやった。しかし7年間の長いルイの不在中にもかかわらず、タルラン家の運命をどん底に追いやるには至らなかった。
彼は少しずつ畑を建て直しそして妻と共に始めてのCuvée Tarlantを造ることを決めた。
1928年瓶詰め、1929年商品化されたものはカルト・ブロンシュと呼ばれた。このキュヴェは2つの大戦の間にフランス市場で成功と共に発展していった。
ジョルジュ・タルラン(1908-2008)は1938年9月のヴァンダンジュの最中に戦争に召集される。彼の妻ジェルメーヌは義父と息子ジョルジュ(1928-2007)の助けの元第2次世界大戦によって損害を受けた畑を護るために最善を尽くした。
1945年11月。父が帰って、ジョルジュ・タルランはいくつかのパーセルを買ってブドウ畑を完全にを引き継いだ。そして1950年代彼の妻と共にシャンパーニュの発展を知ることになる。
彼らの息子ジャン-マリー・タルラン(1928-)は1972年から家族経営におけるその真価を妻のミシュリーヌと共に始める。21世紀の始まりには彼らの二人の子ども、ブノワ(1976-)とメラニー(1980-)が働きはじめる。